【大型記事】ハーン(最終回・仮) | わかり松。の でつノート

わかり松。の でつノート

リアル分析で反日サマナ滅札!!!!

.
.
【大型記事】ハーン(最終回直前スペシャル)

のつづきでつね。



デーン人系黴菌愚にエラが!!!!

しかしエラといえば。。。


というところからでつね。


そう、エラといえばチョン。


すでに(前篇)の時点で仕込みをしてたんだが、

気づいたでせうか?


tenHahn (surname)1

tenHahn (surname)2
【大型記事】ハーン(前篇)⇒こちら


バカチョンネームとしての「ハーン」。

海外では「ハーン」と喚いてるようだが、


実際は「ハン(韓)」でつね。


称号としてのハーンは「汗」だが、


バカチョンと汗。。。臭いのは間違いないが(縛w



Khan (title)-Wikipedia


wikiKhan (title)11



n southern Korean states, the word Han or Gan, meaning "leader", possibly derived from Khan, was used for various ruling princes, until Silla, one of the Three Kingdoms of Korea, united them under a now hereditary king, titled Maripgan, meaning the 'head of kings' (e.g. King Naemul Maripgan).


「新羅の頃のHanとかGanというのが汗ニダ!」

と喚いてるようでつね。



新羅-Wikipedia


wiki新羅

wiki新羅2

wiki新羅3



第五代新羅王の婆娑尼師今の時代
日本書紀で倭国に服したという新羅王波沙寐錦(はさむきむ)のことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐」は、新羅の固有の君主号ともいわれる[26]。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている[27]。なお、法興王の前代の智証麻立干の時代に国号を新羅として君主号を王に定めている。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」現代韓国語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。

日本では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。



503年に成立とか遅っ!!!!(縛w

錦と尼師今。。。完全に日本語でつね。


それは余談だが、



智証麻立干-Wikipedia


wiki智証麻立干

wiki智証麻立干



智証麻立干(ちしょう まりつかん、437年 - 514年)は、新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、諱は智大路、または智度路、智哲老。『三国遺事』では智哲老王、智訂麻立干とも記される。第17代奈勿尼師今の曾孫であり、先代の炤知麻立干とは再従兄弟となる。父は習宝葛文王、母は第19代訥祇麻立干の娘の烏生夫人。王妃は朴登欣伊飡(2等官)の娘の延帝夫人。

503年10月には群臣の上奏を受けて、斯羅・斯盧・新羅などと称していた国号を新羅に定め、居西干・次次雄・尼師今・麻立干などと称した君主号を王と定め、正式に新羅国王と号することとした。


訥祇麻立干-Wikipedia


wiki訥祇麻立干

wiki訥祇麻立干3

wiki訥祇麻立干2



訥祇麻立干(とつぎ まりつかん、生年不詳 - 458年)は、新羅の第19代の王(在位:417年 - 458年)であり、姓は金。17代奈勿尼師今の長男であり、母は13代味鄒尼師今の娘の保反夫人(内礼吉怖ともいわれる)、王妃は先代の実聖尼師今の娘。417年5月に先代の実聖尼師今を殺し、自ら王位についた。『三国遺事』王暦では別名を内只王と伝える。

高句麗と倭とへ人質として送られていた王弟が即位翌年(418年)に帰国すると、徐々に高句麗からの従属的体制を脱そうとした。百済の毗有王からは433年以来頻繁に使者や貢物を送ってきており、新羅もまた百済へ返礼を贈り、両国は同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗していく姿勢を強めていった。

『三国史記』新羅本紀・訥祇麻立干紀や『三国遺事』紀異・第二南解王条には金大問(8世紀の新羅の学者)の解説として、「麻立」とは橛(切株)の方言で座席を示すものであり、王を中心に据えて臣下が回りに並んだことから、「麻立干」と名付けたという。他に、「麻立」の首長(干)とする説や新羅人名の尊称語尾とする説、高句麗の官位の莫離支を源流とする説などがある。(→井上訳注1980 p.23)


三国遺事-Wikipedia


wiki三国遺事



『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと見られる。

朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を記した資料は極めて乏しいということもあって、『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。



「1280年ごろに書かれた胡散臭い史書」

によると、「干」というのを417年から


使ってるようでつね。


418年に高句麗から人質が帰ってきてるが、



前燕-Wikipedia


wiki前燕



中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。



このころに鮮卑族と高句麗が国境を接してる

わけでつね。


で、既出の。。。


ten拓跋部
【大型記事】ハーン(後編)⇒こちら


これでつね。

鮮卑族は不確定な部分では西暦200年代から、

遅くとも402年には「可汗」を使ってたので、


国境を接してた高句麗経由で入ってきてた

可能性があるわけでつね。



ten東突厥
【大型記事】ハーン(後編)⇒こちら


で出てきたように、「ハーン」はバルカン半島から

満州あたりまで来てたわけだが、実質的には


バカチョン半島まで来てたわけでつね。


で、黴菌愚はハザールと融合。


つまりユーラシア大陸ってのは「可汗」で

つながってる「可汗一味」であり、だからこそ


エ下劣奇俗でユダヤ人という、

なんの関係もなさそうなお茶屋が


バカチョン半島に肩入れするわけでつね。


ten主要企業・銀行の殆どが外資に乗っ取られてる
【うんこ通信】滅亡のスイッチを押した南チョン⇒こちら






この後もあるんですが、この部分に追記が必要になったので

本当の最終回は明日にさせてくだちいm(__)m