ア ガール オブ プレイ

Last-modified: 2016-07-30 (土) 10:13:44

概要

作品名作者発表日保管日
「ア ガール オブ プレイ」173-418(避難所-◆Yafw4ex/PI)氏15/09/2315/09/24

作品

 

 ア ガール オブ プレイ
 
 
「いい天気ですね」
 それは、古泉が口にした特に返事を求めているわけでもない独り言だった。
 普段、古泉に対しては適当に相槌を打つなり、聞こえない振りをしている俺なのだが。
「本当だな」
 自然とそう答えてしまっていたのも、この抜けるような青い空の影響なのだろう。
 ――季節は秋、暑くも寒くも無く、のんびりと外で過ごせるこの季節でも、人はそれが延々
と続いたならば不満を持つのだろうか。
 珍しく俺がこんな物思いに耽っているのは、もしかしたら普段と居る場所が違うせいなのか
もしれない。
 ハルヒ、長門、朝比奈さんは現在買い出し中。放課後早々、ハルヒの奴があんまんを食べた
くなったんだそうだ。
 俺が掃除当番で遅れて部室にきた時、メッセンジャーの古泉だけがそこに居た。
 で、そのまま二人で部室で留守番ってのもどうかと思い、こうして外に出てみたんだが……。
 風は穏やかで僅かに涼しいと感じる程度、校舎に切り取られた空には雲一つ無いが日差しは
穏やか、このまま目を閉じさえすれば昼間だが心地よく眠れる気がする。
「いい天気だな」
 自然と漏れていた声は、意図した訳でもなくさっきの古泉と同じ台詞で、
「本当ですね」
 古泉が返した言葉もまた、さっきの俺と同じだった。
 ハルヒ理論からすると、こんな刺激とは無縁の時間に高い価値はないんだろうか。
 俺からすれば、超常的な出来事なんてのはあくまでスパイスであって、基本スタンスは平穏
である事が望ましい。スパイスってのはもしあれば刺激的ではあるものの、別に無くては困る
物ではないだろう。
「……」
 そこに座ってコーヒーを飲んでる超能力者だって、多分同じ意見だと思う。
 俺の視線を感じたのか
「何か、お考えですか?」
 まあな。
「月に一度はカレーが食べたいって意見と、毎日カレーがいいって意見には壁があるのかって
考えてた所だ」
 あえて曖昧な返答を返しておくのが、機関のメンバーとやらに対処するコツだ。
「なるほど、それは秋らしいテーマと言えますね」
 ……ああ食欲の秋か、そういえばそうだな。
「好きな物であれば毎日同じでいいと言っている人でも、やはり同じ食事が本当に続けば違う
物が欲しくなるケースは多いと思います。ずっと考えの変わらない人は稀でしょうね」
「そうだろうな」
 こんなどうでもいい話題に真面目な返答を返す奴も稀だろうな。
「ですが、時間を置けばまた欲しくなる。そんな麻薬的と言える様な魅力がある事も、また事
実ではないでしょうか」
「古泉」
「はい」
「お前、カレーにはうるさい奴だったのか」
 今度からはこの話題は避けようと思っていた俺に
「……」
 古泉は何故か意味深な視線を向け、その視線をグラウンドの方へと向けると
「あっ! 二人ともビッグニュースよ! 駆け足で部室に集合!」
 朝比奈さんと長門の手を引いたハルヒの姿が、ちょうど見えてきた所だった。
 
 
「当たったのよ!」
 部室に戻った時、ご機嫌なハルヒは何故か机の上に立って何かを掲げている様だった。
 何とかとハルヒは高い所が好きって奴だな、別に珍しくも無い。
 物理的に上から見下ろしているハルヒは取りあえず放置し、自分の席に座ってから
「で、何が当たっ「旅行よ旅行! 今度の連休にみんなで行くわよ!」
 レジ袋に突撃する子猫の様なテンションで机の上に伏せたハルヒの顔が、興奮気味に俺の言
葉を遮りつつ言ったのは……旅行だと?
 ハルヒが突きつけてきていた白い封筒には「目録」と書かれており、紅白の帯がしてある。
「そうなのよ! みくるちゃん、やっぱり貴方を見つけたあたしの目に狂いは無かったわ~。
さっき買い物で駅前まで行ったのよ。途中のコンビニには肉まんしかなかったから、今日はど
うしてもあんまんって気分だったのはこの為だったのね」
 うんうんと頷いている所悪いんだが、まるで意味がわからない。
 続きを聞いていいか。
「もちろん聞かせてあげるわ。駅前の商店街を通ったら福引をやってたの、そしたらたまたま
みくるちゃんが券を持ってて一等を当てたのよ!」
 さっきの説明無しで今の話だけで良かった気がするが……まあともあれ
「おめでとうございます、朝比奈さん」
 俺の心からの祝福に
「……ど、どうも……」
 何時になく小さな声で朝比奈さんは答えてくれた。
 ハルヒに無理矢理引っ張られて疲れたんだろうか、朝比奈さんの表情はどうにもすぐれない。
 気のせいでなければ青ざめている様にも見えるんだが……。
「でね! その景品がこの旅行ってわけ! しかも温泉よ温泉! 日程は次の連休の初日から
最後まで、みんな全員参加だからね? いい? ちゃんと体調を整えておく事! オーバー!」
 勝手に完結してハルヒは部室を飛び出していき、間もなくその足音も聞こえなくなった。
 日程と旅行と温泉って単語は分かったが、場所は何処だよ。
 まあ、その場には長門も居たはずだし細かい事はそっちに聞いた方が……ってぇ!
「あのぉ……キョンくん……」
 突然背後から聞こえてきた声は朝比奈さんの声で、その声よりも彼女が真っ青な顔で泣き出
していた事に思わず飛び上がっていた。
「あ、朝比奈さん?」
 どうしたんですか?
「わたし……とんでもない事を……」
 えっと、何かあったんですか?
 大事な物を無くしてしまったとか、また未来に帰れなくなってしまったとか。
「そうじゃないんです……あの、その、さっき涼宮さんが話していた旅行なんですけど……」
 ああ、温泉がどうとか。
「はい。あの旅行をわたし、まさか当たっちゃうなんて思ってなくって……その、本当はもし
当たったら嬉しいなって思っていたんですけど……でもいつも懸賞とか当たった事が無かった
から大丈夫かなって……涼宮さんは凄く喜んでくれて、あの、私も嬉しくて途中まで気付かな
くって……で、出来心なんです」
 ――朝比奈さんかぽつぽつと話してくれた内容をまとめると、だ。
 ハルヒが言う通り、朝比奈さんは商店街の福引で見事一等を当てた。
 しかし彼女は未来人である。
 朝比奈さんが当てた一等は、本来なら別の誰かが当てていたはずの一等。
 帰り道の途中で朝比奈さんはその事に気づいたらしいのだが、ハルヒの楽しそうな顔に一等
を辞退したいという事を言い出せなかった……という事でよかったですか。
「……はい」
 お通夜の様な顔で朝比奈さんは頷くのを見て――ま、何とかなるだろうと俺は思っていた。
 たかが一般人の俺に出来る事はほぼ無いんですが、
「古泉、機関で温泉旅行を準備出来るか? 妙なイベントは無しでな」
 話を聞いている間に思いついていた対処案を超能力者に告げると、
「了解です、至急ご用意しましょう」
 古泉は頷きながら携帯を片手に部室を出て行った。
「え? え?」
 この手の事態に慣れてしまった事にいつもため息をついていたが、今日ばかりは感謝してお
くべきだろう。
 人間、やはり経験だな。
「すまん長門。本来の一等を当てるはずだった人ってのはわかるか?」
「わからない」
 そっか、まあそりゃそうだよな。すまん、自分で言っていて無理があったと思う。
 となれば、だ。 
「じゃあ朝比奈さんが福引を回した直後に、回す前の状態に戻すってのは可能か? そして、
福引所に居る人の一等が当たったって記憶も誤魔化したいんだが」
 まばたきと数秒の間の後、
「可能」
 長門の言葉に、俺以上に朝比奈さんが歓声を上げていた。
「キョンくん、長門さん、古泉君にも、あの、本当にいつもご迷惑ばかりを」
 朝比奈さん。
「は、はい」
 涙顔も可愛いですよ、じゃなくて。
「温泉ありがとうございます、楽しみですね」
 ああ、やっぱり笑顔がいいですね。
 俺がかけるべき言葉はあっていたらしい。
 

 ――とまあ、そんな感じで出発前の段階では些細なトラブルがあり、不可視状態での時間旅
行を再体験する事になったりしたわけなのだが。
 今、我々はよく言えばレトロな状態の普通列車に揺られつつ、旅行の目的地である温泉街へ
と移動中だ。
 どっかの誰かにいつの間にか命名されていたシルバーウィークとやらと、ちょうど旅行の日
程が重なっていた事もあって混雑は覚悟していたんだが……電車の中は何故か空席だらけ。
 どの程度空いているのかというと、はしゃぎ疲れたハルヒと朝比奈さんが横がけのシートで
眠っていても特に邪魔にならず、高齢者の乗客の目を和ませているくらいにがらがらだ。
 時刻表によれば、昼過ぎには目的地近くの駅に到着。そこから更にバスで一時間程の行程と
なっている。
 どんな所に連れて行かれるのかわからんが、まあ古泉の事だから冗談で済まされる範囲の事
しか企んでいないだろうさ。そう思いたい。
 俺は車窓から見える風景を、長門は手元で開いた文庫を、古泉は見知らぬ老婆との世間話を
それぞれ愉しみながら、電車はのんびりとした速度で俺達を運んで行った。
 
 
「角部屋ね!」
 部屋に入っての第一声がそれか、ハルヒ。
 ようやく旅館に辿り着いた時にはもう、日は落ち始めて……いや、周りが高い山だからそう
見えるだけか。予定通りの昼過ぎに到着した旅館は、今度はいい意味でのレトロな風情のある
和風の建物で、こじんまりとしたつくりの玄関には本日のお客様「SОS団御一行様」と書か
れていた段階でハルヒのテンションは最高潮に達していて、俺は俺でほっとしていた。
 何故なら予定客の一覧で今日を含めた三日間は俺達だけ、つまりは実質的に貸し切りって事
らしいのだ。機関とやらはずいぶん経営状態がいいみたいだな。
 ちなみに泊る部屋は大部屋が一つと、それに面した小部屋が二つの計三部屋。小部屋には簡
易的ではあるものの鍵もかかるらしい。
 男子と女子でそれぞれ小部屋を使って食事は大部屋でといった所で仲居さんからの説明も終
わり、それぞれ荷物を置いてきた所で
「まずは温泉ね! みくるちゃん、有希! 行きましょう! ……キョン、言っておくけど」
「安心しろ、覗かない」
 先に宣言した俺に人差し指を横に振りつつ
「いいわよ? 覗いても。ただし、条件があるわ。覗いたら、あんたの夕食から和牛ステーキ
没収ね! 対価としては安いもんでしょ? だからどんどん覗きなさい」
 完全に本気の口調でハルヒはそう言い切り、部屋を出て行った。
 ――結論から言おうか。羞恥心よりも肉欲を取ったらしい団長さん達が部屋に戻るまで、俺
は部屋から一歩も出なかった。
 万一にも疑われるのを避けるにはこうするのがベストであり、俺もまた仲居さんから説明さ
れた和牛に心奪われた一人だったのである。
 
 
 銀河の果てまで透けている様な星空が、揺れながら消えて行く湯気の間に縁どられて見える。
 体温よりかなり高めの温泉につかりつつ見ていたその夜景は、これが心の洗濯って奴なんだ
ろうなと実感させるに足るものだった。
 古泉は気を利かせたのか温泉には俺だけしか居ない、宿に他の利用客が居ないんだからまあ
当然なんだが……贅沢だな。
 さっきの料理といい、湯上りの朝比奈さんといい、この温泉といいだ……こんなに幸せでい
いんだろうか? とすら思えてくる。
 いずれ年齢と重ねればここにアルコールがあれば等と思うようになるのかもしれないが、今
は極楽だと素直に言えるね。
 まあ、普段が普段なんだし、たまにはこんなイベントがあっても罰は当たらないよな。
 そんな小市民的な感想はかけ流しの温泉と共に流れていき、旅行の初日は無事に終わった。

 翌日、朝食にしては豪勢過ぎている山の幸が溢れ気味な食事を済ませた後、
「今日は自由行動ね! いつも一緒でもいいけど、たまには個人の目で色々探すのも大事よ!
夕食の後にみんなで報告会するからそのつもりでね!」
 ハルヒ団長による解散命令が出され、いよいよ持って今回の旅行は俺の慰安旅行の様相を呈
してきたのだった。
 ……これ、夢じゃないよな?
 旅館の浴衣を羽織ったまま、硫黄の匂いが香る温泉街を一人で歩いていても、何処か現実感
が無かった。変な事を言ってるって? その自覚はある。
 いつもならこう、ハルヒが何かをしでかすんじゃないかって不安と言うか、諦めと共に過ご
しているはずなのに……視界の範囲にハルヒの姿が無いって事に最初は違和感すらあった。
 でもまあ、民芸品の細工に悩んだり、熱さに手こずりながら温泉卵を食べたり、特に何も無
い川を橋の上から眺めている間に、一人の時間にも慣れていたりもした。
 そう、慣れていたはずなんだが……ハルヒ達は何処へ行ったんだろうと考えてしまうのは、
保護者的な意味での不安なんだろうか。
 古泉は他の旅館の温泉や足湯を楽しむとか言ってたが、他のメンバーの行き先については分
からない。
 そんなに大きな温泉街じゃなかったから、何処かで誰かに会うだろうと思ってたんだが。
 ……探してみるかな。
 せっかくの自由時間の使い方がそれでいいのかという気もするが、他にやりたい事があるわ
けでもないし。
 そう思って再び街をぶらついて居ると
「よう」
「……」
 ふと目に入った行列の途中に、長門を見つけた。
 行列の先にあるのは……意外だな。
「ラーメンか」
「そう」
 十人程が並ぶその店はラーメン屋で、暖簾に書かれた店名は達筆過ぎて俺には解読できない。
 まあちょうど昼時ではあるし、俺も並ぶとするか。
 後ろに並んでいる人に悪いので最後尾へと移動すると、無言のまま長門もそれについてきて
いた。
 長門にも、一人より二人の方が食事は美味しいといった感覚があるんだろうか。
 ま、とはいえだ。
「悪いな」
 謝る俺に
「いい」
 長門は店の入り口を凝視しながら僅かに首を横に振った。
 ――なお、ラーメンはコメントに困るくらい普通の味だった。宿の食事が美味しすぎたせい
という可能性も、一応考慮しておこう。
 
 
「あ、おかえりなさい」
 夕方に戻った俺を迎えてくれたのは、帰ってきた時に出迎えて欲しい相手部門でも断トツの
一位を誇る朝比奈さんだけだった。
 ……浴衣姿も実に素晴らしい、是非朝比奈さんのコスプレラインナップに加えて欲しいくら
いです。という表情を隠すのに苦労した。
「みんなは温泉に行ってます、今日は夜から雨になるみたいだから今の内にって」
 なるほど。
 とはいえせっかく朝比奈さんと二人っきりの時間だ、温泉よりもよほど貴重なこの時間を
「あたしも今から行ってきますね」
 あ、はい。俺もそうしようかなー……。
 
 
 結局全員が揃ったのは夕食の時だったんだが、
「……」
 今朝の食事時も含め、普段なら一番騒がしいはずのハルヒが、何故か静かだった。
 それは「何か不手際でもありましたでしょうか?」と仲居さんが聞いてくる程だと言えば、
わかってもらえるだろうか。
「いえ、大丈夫です」
 言葉少なくハルヒはそう返事をしただけで、その後も静かなまま。
「……ハルヒ? 俺の肉も食べるか?」
 ほら、箸でさくさく切れる程柔らかいぞ。
 思わずそう聞いた俺にも
「いい」
 興味無しだと……? おい、大丈夫なのかこれ。
 営業スマイルを崩さないでいる古泉も、何処となく緊張している様に見える。
 朝比奈さんは純粋にハルヒを心配している様で、長門は黙々と食欲を発揮していた。
 夕食後にやると言っていた報告会も無くハルヒは部屋に戻り、いつしか屋根を叩く雨の音が
室内に響き始め、誰もが不安を抱えたまま夜を迎えた。
 
 
「涼宮さん、ですよね?」
 男性部屋に戻るなり、古泉はそう口を開いた。
 ああ。
「何かあったのか」
 古泉は首を横に振り、その顔は困っている様に見える。
「何も、本当に何も無かったんです。分かれてからの涼宮さんの行動は把握していますが、特
におかしな事はありませんでした。お一人で観光名所になっている遺跡や歴史資料館をいくつ
か巡って宿に戻るまでの間、何か事件に巻き込まれる事も、彼女の力で不思議な出来事が起き
る事も、不審者と遭遇する事もありませんでした」
 そこまで言い切れるって事はつまり……お前のサービス残業を労うのは後にするとして、だ。
「じゃあ何でハルヒの様子がおかしいんだ?」
「……」
 この肝心な問題に対しての答えを、俺もお前も持ち合わせていない。それが現状ってわけか。
 旅行が楽しすぎて帰りたくない! って思うにしても、普通に考えればもう少し後からだろ
うし。
 たまたま、そうたまたまハルヒの機嫌が悪いだけって可能性だって無くはない。
 秋空と一緒で、次の瞬間には機嫌が変わってるような奴だしな。
 ……そんな予想は当たらないだろうなと思っていた。
 ああ、思っていたよ。
 
 
 深夜――それが雨音だと理解するまでに、暫くの時間が必要だった。
 自分が目を覚ました理由が、騒音と呼ぶような大きな音が天井を伝わって聞こえているから
なのだとすぐにわかった。
 今は何時だ……?
 時計に手を伸ばして確かめ……あれ、何処に置いたっけ。
 枕元を探って時計を手に取って見ると、ついさっき三時を過ぎた所だった。
 凄い雨だな……って、あれ。古泉?
 隣りに引いてあったはずの布団は空になっていて、敷布団を触ってみたが既に冷たくなって
いる。
 とりあえず部屋を出ると大部屋には誰の姿も無かった、女子部屋に声をかけるのは躊躇われ
るが……どうしようかと襖の前で迷っていると自動扉の様に襖が開き、そこには長門が立って
いた。
「えっと」
「緊急事態」
 何を聞いていいのかすら分からなかった俺だが、雨音に掻き消されそうな長門の声に、一気
に目が覚めた気がした。
 思わず息を飲む中、
「大雨洪水警報で、河川州域に避難指示が出ている。この宿は避難区域の対象外」
 ……ほっとしちゃいけないんだろうけどな。
 周辺住人の方、すみません。ほっとしました。
 閉鎖空間だとか謎の組織だのと言われなくて良かったぜ。
「ハルヒと朝比奈さんは寝てるのか? あと、古泉の姿が見えないんだが、何か知ってるか?」
「朝比奈みくるは就寝中」
 そうか、それは何よりだ。
「涼宮ハルヒは川を見に行った」
 え?
「涼宮ハルヒは川を見に行った。古泉一樹はそれを追って行った」
 長門が繰り返す言葉の意味を理解するまでに数秒が必要で、それが終わった所ですぐさま俺
は部屋を飛び出した。
 
 
 ロビーには深夜だというのに明かりがついているだけでなく、従業員が数人待機していた。
 そこで聞けた話によると、この地域に住む高齢者でも記憶にない程の大雨が降っていて、警
報も出ているらしい。宿は川から遠く立地も高所なので心配は無い、危ないから外には出ない
で欲しいとの事だ。
 ハルヒがここへ来なかったかと聞いてみると、三十分程前にさっきと同じ事を聞いて部屋に
戻ったらしい。
「実は、ハルヒが川を見に行ったらしいんですが、大丈夫ですかね?」等と言えるわけもない。
 部屋へ戻ると、大部屋には長門が居るだけだった。
「ハルヒと古泉は」
「戻っていない」
 そっか。
 とりあえず長門の向かいの座布団に座ると、事前に用意してくれていたらしいお茶がすぐに
出てきた。
 頭を下げつつ、隣りの部屋で眠る朝比奈さんの邪魔にならないようにお茶を啜っていると
「この地方には洪水の被害にあった歴史がある」
 雨音の間を縫うようにして、長門の声が聞こえてきた。
「一世紀程前、この周辺は何度も洪水の被害に苦しんできた。堤防工事は大雨で数回頓挫、そ
れでも治水事業は継続され、堤防の完成後に洪水の被害は起きていない」
 何となく視線を向けた窓の向こうは闇夜で、そこに雨の様子を伺う事は出来ない。
 延々と耳に入ってくる音だけが、雨の状況を知る全てだ。
「長門、その話ってつまり……大雨でも堤防があるから大丈夫って事か?」
「わからない」
 いや、わからないって言われても。
「この話を、私は涼宮ハルヒから聞いた。歴史資料館にあった書物にそう書いてあったと教え
てくれた」
 聞いた限りでは、あいつが興味を示しそうな内容には思えないが……何か、気になる事でも
あったんだろうか。
 夕方のあの様子からしても、その可能性は高い気がする。
 やれやれ……。
 自然と口から漏れていた息が、湯飲みから上っていた湯気を乱した。
 自称超能力者でこんな宿まで手配できる古泉や、何事にも動じない万能元文芸部員とは違い、
俺には何の力も無い事は十分自覚している。こんな天気の中で外に出るのは悪手以外の何物で
もない事もな。
 せっかくの骨休めなんだし、ここで大人しく待ってるのが一般人たる俺の取るべき選択なの
は間違いないだろう。長門がここに居るって事はつまり、ハルヒに身の危険が迫ってるって事
でも無いんだろうしな。
 だからこれはきっと、間違っている選択なんだろう。
 お茶を一気に飲みほして、ちゃぶ台の上にそっと湯飲みを置いて立ち上がると
「お茶、ありがとうな」
「いい」
 座ったまま首を横に振る長門に
「ハルヒが何処に居るか、教えてくれるか?」
 俺がそう尋ねると、長門はただ頷いてくれた。
 
 
 俺が旅館の玄関に戻った時、そこは何故か無人で、利用客用と書かれた傘がすぐわかる位置
に置いてあった。
 これが偶然なはずもなく、長門か古泉の関係者が何かしてくれたんだろうな。色々と考えて
いた外出の口実が不要になった事に感謝しておこう。
 恐る恐る玄関の戸を開けると、隙間から大きな雨音が漏れ出してきて俺は慌てて外に出て戸
をしめていた。
 ……あれ。
 外に出て気づいたのは、この大きな水音の殆どは雨の音ではなく、遠くの川から聞こえる音
だという事だ。傘が必要な程度に雨は降っているが、既にピークは過ぎているらしい。
 川にさえ近付かなければ大丈夫そうだな……逆に言えば、万一川に落ちたりでもしたら助か
りそうにないが。
 ごうごうと響く水とは思えない音から離れる様に、俺は長門の教えてくれた目的地へと足を
進めた。

「風邪引くぞ」
 ハルヒはあっさりと見つかってくれた。
 旅館から一キロも離れていない位置にあったその丘には、街灯とベンチが置かれている。ど
うやら休憩所か公園的な物らしいな。ハルヒは街灯の一つの隣りに立っていた。
 俺が隣りに立つと、
「みんなは?」
 ハルヒは俺と同じ旅館の名前の入った傘をさし、音が聞こえる方角を見つめている。
「旅館に居るぞ」
 一名を除いてな、と心で付け加えておくとしよう。多分、その辺にいるんだろうけどな。
「そう」
 返事は返ってくるものの、ハルヒに帰ろうとする様子はなし。
 仕方なく俺も同じ方を見て……見るべき物は何も無かった、その方向にあったのはただの暗
闇だけ。
 試しに目を閉じて見ても差が解らない程の闇がそこには広がっていて、猛獣の声の様な水音
が途切れる事無く聞こえてくる。
 ここに危険は無いって分かってはいるんだが……人は本能的に闇を恐れるってのは本当だな、
隣りに居るハルヒの姿を見て思わずほっとしたくらいだ。
「……ここにね、ずっと昔に病院があったんだって」
 傘のせいで相手の顔があまり見えないせいなのか、あまり感情が感じられない声に聞こえる。
「病院?」
「そう。そこに中学校の途中からずっと入院していた人が居てね、今みたいな大雨の時に堤防
が壊れて大きな被害が出て……雨を止ませる為に人身御供になったんだって」
 人身御供って、まさか。
「あんたの想像してる通り、当時は割とあった事よ。……今で言えば、その行為で雨が止むだ
なんて誰も思わないわ。でもね、もしかしたら……当時の人もこれで雨が止むと信じてなんて
いなかったのかも。それでも、これで雨が止む『かもしれない』って希望でも無ければ、どう
しても動けない時もあるんだと思う」
 何かを考えているのか、それから暫くの間ハルヒは無言だった。
 ハルヒが言う様な絶望的状況に心当たりがあるはずもない俺には、当時の人々の苦労を理解
する事は出来そうにない。
「その、人身御供になった人ってね。亡くなったのは二十四歳の時だったんだって、中学の時
から入院していたらしいから十年以上ずっと病院に居て……でも結局、病気は治らなかった。
もう長くは生きられないって言われてて、こんな自分に出来る事はこんな事しかないからって、
自らその身を投げ出した。この地域ではずっとそう語り継がれてるみたい」
 お前の様子が変だった理由は、その話を聞いたからか。
 ハルヒはこちらを向くと、
「……キョン、あんたって幸せ?」
 何時もの無駄な元気がまるで感じられない顔で、そう聞いてきた。
 いきなりな質問だな、おい。
「幸せだと思うぞ」
 この旅行はもちろんだが、恵まれてる生活を送れてるんだと思ってる。無い物ねだりはして
しまうが、それだって幸せの証明みたいな物だろう。
「あたしもそうなのよ。……幸せで、でも、足りなくて。平凡な幸福だけじゃ物足りなくて、
誰も知らない様な体験をしてみたいし、宇宙人や未来人や超能力者だっていつか絶対に捕まえ
てみせる! ……それがあたしの望み。でも、世の中にはその平凡な幸福が望みの人も居るの
よね」
「……だから、望みを諦める……か?」
 すぐにハルヒは首を横に振り
「そんな事をしても、誰も幸せになったりしないじゃない。幸福に絶対量なんて無いんだから、
むしろあたしはもっと幸せになって周りに分けてあげればいいのよ」
 幾分ではあるが元気が戻っていたハルヒの声に、何故かほっとしていた様な気がする。
 その理由についてはいまいち自分でもわからないんだが……まあいい、とりあえず
「帰ろうぜ、ハルヒ」
「うん」
 意外にもハルヒはあっさり頷き、俺達は街頭の照明だけが見える丘を後にした。
 
 
 帰り道の途中で雨も止み、雲の隙間からの月明かりが暗い夜道をぼんやりと浮かび上がらせ
てくれていた。川からの音も小さくなってきた気がしなくもない。
「ねーキョン」
 ん?
「さっきの話の亡くなった人って、遺書を残してたの。それも資料館に展示してあったんだけ
どね、その内容が最後に昔の友達ともう一度会いたいって内容だったのに相手の名前が書いて
無かったのよ」
 俺の少し前を歩いていたハルヒは顔だけこちらに向け
「あんたはどうしてだと思う?」
 遺書を一般公開してる事がまずどうかと思ったが
「……相手に、気を使わせたくなかったんじゃないか。会いたかったって書いてあるって事は
つまり、結局会えなかったんだろうしさ」
 そこで名前を書いてしまえば、相手も気に病むかもしれない。そう思ったんじゃないか。
「あたしだったら、状況が状況なんだし相手を呼び出すくらいは許されると思うの。それくら
いの権利は認められてもいいと思わない?」
 そうかもな。
「実際の状況がどうだったのかわからないが……」
「……わからないから、何よ」
「いや、何か言いたかったわけじゃない」
 ハルヒは「変なの」と言うだけで、それ以上追求してこなかった。
 会いたいって思いがあっても、会ってはいけない相手も居れば、顔を見られたくない相手も
居るだろう。
 でも何にしろ、だ。本人が口を閉ざす事を選んだ秘密なら、詮索すべきではないと俺は思う。
 ようやく旅館の屋根が見えてきた頃、
「ねえキョン、あたしだったら来てくれるわよね」
 主語が行方不明だ、捜索隊を組織しろ。
「誰かさんのせいで、変な時間に起きて動き回ってたから半分頭が眠ってるんだ。説明はわか
りやすく、簡潔で頼む」
「だーかーら、あたしが二十四歳で余命宣告を受けて、卒業後に連絡も取れなくなってたとし
ても、もう一度会いたいって言ったら来てくれる?」
 ああ、さっきの話を自分に例えてるわけか。
 現実的に考えて……
「すぐにってのは難しいんじゃないか?」
「……え」
 だって、ほら。
「二十四歳ともなれば、みんなそれぞれに生活がある頃だろうしさ」
「……」
「でもまあ、時間があれば……ってハルヒ、何を怒ってるんだ」
 それこそ半分寝ている頭でも一瞬で理解できる怒った顔が、俺をにらんでいる。
 腕を組んだハルヒが、俺の前に立ちふさがっていた。
「あんたが、そんっな薄情な奴だったなんてね」
 薄情……ああ、そういう事か。
 殆ど回転していない頭が導いた結論、それはハルヒが怒っている理由であり、それに対して
出された返答。
「ハルヒ。お前が会いたいって、みんなって意味じゃなかったのか。多分、俺はこれから先も
ずっとお前の傍に居る気がしてたから、わざわざ呼び出すまでもないと思っただけだぞ」
 自然と口にしてしまったこの返答にハルヒは何故か足を止め、俺がその横を通り過ぎ、さら
に数歩先まで言ってもハルヒは立ち止まったままで。
「おいハルヒ、帰らないのか?」
 動き出そうとしない背中にそう呼びかけると、ハルヒは雨は止んでるのに慌てた様子で傘を
差し、顔を隠しながら旅館に向けて走っていくのだった。
 
 
 ア ガール オブ プレイ  〆