きものを「貴族の文化」にしたのは何か

英国人の日本文化論が「正しすぎる」「ぐぅの音も出ない」と話題に - with news(ウィズニュース)


タイトルがちょっと煽り過ぎというか大袈裟に感じるが、小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン社長という日本文化に詳しいイギリス人が、きものの価格の高さについて苦言を呈している内容。以下は最後のところ。

 そもそも伝統が伝統になる前は、ちゃんとビジネスになっていたはずなんです。消費者の意向を探り、自ら変わり続けた。だから伝統になれた。着物が存続するためには、真っ当なビジネスにするしかありません。もっと価格を下げて、手に取りやすい着物を増やす取り組みが、最低限必要だと思います。


最近またちょっとしたきもの流行りで、若い人向けの雑誌も出て、気軽にきものを楽しめるよう様々な提案がされていたり、手にしやすい価格帯のきものが売られていたりするが、街を歩いていて頻繁にきもの姿を見るところまでは行っていない。お店の人の作務衣とか夏の浴衣以外では。
そもそも生活スタイルが欧米とほぼ同じになった今、普通の人がきものを着る機会はほとんどない。昔から着ている人、毎日のように着ている愛好家は別として、通勤にはちょっと着られないし、温暖化のせいできものが暑く感じられる季節が長くなった。一般の人々にとって、きものはやや特殊なおしゃれであり、金のかかる和風コスプレのようなもの。


きもの、と言って普通の人が最初に思い浮かべるのは、正絹の手織り、手縫いの高級きものだ。
呉服店で反物を選び、自分の寸法ぴったりに仕立ててもらう。それに合う帯を仕立て、長襦袢帯揚げ、帯締めまで揃えれば数十万円はかかる。下手すりゃ数百万。
例えば帯によく使われるつづれ織りなど、熟練の職人さん(一昔前は中国の山村で子どもがその仕事に従事していた。刻みをつけた爪にひっかけて織るので手の小さい子どもの方が良いということで。当然賃金も恐ろしく安い)が一日かかって数センチ四方くらいしか織れないという、ペルシャ絨毯のようなシロモノだ。
洋服で言えば、オートクチュール。高級メゾンで最高級シルクのドレスをオーダーメイドするのは、富豪か超有名女優かファーストレディくらいのもの。高級きものもそれと同じで、シーズンごとに何枚も作ることができたのは、戦前は上流階級の女性だけ。せいぜい都市の中間層(今の中流より上)の小金持ちまでだろう。
一般庶民が着ていたのは、木綿の絣やモスリンやセル(いずれもウールの一種)のきものだ。たまにB級絹糸である銘仙の反物を手に入れて、家で晴れ着を縫った。和裁ができるのは「いい嫁」の条件だったらしい。
日常的にきものを着ていた私の祖母は、シーズン毎に解いて洗い張りをし、自分で仕立て直しをしていた。今だと悉皆屋などに出すが、クリーニング代はバカにならない(大体一枚七千円ほど)。絹のきものは維持費もかかる。それは「貴族の文化」だからだ。


戦後は洋服全盛となり、和裁を教えるのに替わって洋裁学校がどんどん作られた。オードリー・ヘップバーンのファッションが若い女性に大人気となった頃だ。昔、実家にあった少女雑誌『ジュニアそれいゆ』に掲載の小説で、昭和30年代前半の女の子の生活が垣間見える記述を読んだことがある。
高校生の少女が学校から帰宅すると、出入りの呉服屋が来ていて、反物をどっさり座敷に広げている。きものが大好きな母親は娘に新しい訪問着を作ってやりたくてしかたなく、呉服屋の薦める京友禅か何かの反物を幾つか選び、仕立てを注文する。そこで少女は「あーあ、これでこの春のドレスはお流れか」と残念そうに呟く。
ここに描かれているのは一般庶民の生活ではない。クラスに一人二人くらいしかいない、ちょっといいとこのお嬢さんの暮らしだ。『ジュニアそれいゆ』読者は憧れをもって、そういうライフスタイル描写の出てくる小説を読んでいたのだ。
一方では同じ誌面で編集長の中原淳一が、「木綿のきものを普段着に着ましょう」みたいな提案をしていて、大胆で可愛いプリントのきものを着た少女のイラストを載せていた。それは今思うとアバンギャルドでさえあった。淳一きものは確か何年か前に復刻、限定販売され、あっという間に完売したはずだ。


戦後しばらくの間、一般女性の間では値段の高い正絹ではなく、手入れの楽な化繊のきものがよく着られていたそうだ。日本の絹織物はディオールが買い付けるなどむしろ海外から注目され、外貨を稼いだという。
高度経済成長とともに生活のゆとりが出てくるとまた「本物志向」となり、1960年代は戦後最高のきものブームとなった(‥‥ということが、『「主婦の友」90年の知恵 きものの花咲くころ』に詳述されている)。ちなみにこれは、専業主婦が急速に増えていった時代ともほぼ重なる。60〜70年代のはじめ、小学校の授業参観では、きものに羽織姿のお母さんがチラホラいたのを思い出す。
母親が娘に家で着付けを教えることが少なくなり、着付け教室が大繁盛。教室は呉服屋がやっているところが多く、教室から販売会へというルートが敷かれていた。カジュアルなおしゃれ分野を洋服に奪われた呉服業界がそこでプッシュしてくるのは、戦前の金持ち相手に売っていた有名産地や有名作家の正絹手織り手染めの高級きもの。着て行くシーンも場所も限られる、おいそれとは買えない値段の。
着付けは、道具を駆使して補正しまくりキッチキチに着るタイプが「正統」とされた。昔の人が木綿や紬をゆったり楽に着ていたのとは正反対。


こうして、戦前は庶民から皇族までそれぞれの事情に合わせて身につけていたきものの中で、一番贅沢な「貴族の文化」の部分が主として残った。普段〜おしゃれ着の紬も、大島や結城が有名になったことによってブランド化した。
つまり高度経済成長期に、「きもの=フォーマルなもの」というイメージを呉服業界が作り上げ、女性雑誌とタイアップしてきものブームを盛り上げ、それは娘をお嬢さん風にして少しでもいいとこに嫁がせようとした母親たちの心理も掴み、高級きものでなくてはきものにあらずという風潮が生まれたのではないか。
でも、そんなブームが長続きするわけがない。


この間、文春の連載で林真理子が、東京の老舗呉服店がどんどん店じまいし中古市場がのさばっていると嘆いていたが、当然だろうと思う。
大正ロマンが流行り、リサイクルきものが注目され出したのが80年代末から90年代にかけてだっただろうか。戦後、親から受け継いだりきものブームに乗って作ったりしたが、娘も孫も着ないまま日本中の家庭で箪笥の肥やしとなっていったきもの。それが二束三文で売られ、膨大な中古市場を形成していったのだ。
中古市場のきものは数十万から数百円まで玉石混合だが、よく探すと正絹手織りで値段も手頃な状態の良いものが見つかる。仕付け糸がついたままの未使用品もある。帯や小物も同様だ。とにかくその数がハンパじゃない。気軽に入れるアンティークの店も骨董市もある。
レンタルでなく自分のきものが欲しい、でも呉服店やデパートの販売会は高いもの売りつけられそうで恐い‥‥という人が、中古に飛びつくのは当然だろう。


今は、手入れのしやすい化繊のプレタポルテも色柄豊富に出ている。質が向上して一瞬絹と見紛うようなポリエステルのきものは家で洗濯できるので、汗をかく夏用や雨天用として買う人は多いという。カジュアルな木綿のきものも若い人の間で人気らしい。私もポリや木綿を持っている。
しかし、絹のきものの着心地の良さ、美しさはやはり格別だろう。昔のきものは織りがしっかりしていて、色も新しいきものにはない深みがあるという意見を、きもの愛好者から時々聞く。きものでも何でも、贅沢なものの味を少しでも知ってしまうと、あとに戻るのは難しい。


どこまでいっても「貴族の文化」の産物である、伝統技術を駆使して作られる高級きもの。それは、桐箪笥の並ぶ広い座敷と、季節ごとにきものの維持管理を手伝う女中と、出入りの呉服屋を持つ暮らしが余裕でできる人々のものだった。職人の技術ときものビジネスが廃れないよう買い支えていたのは、そういう金持ちたちだ。美しいものには、何であれ金がかかる。そして、文化が失われるのにはそれなりの必然性がある。
だから極端な話、伝統的な「着物を存続させ」「真っ当なビジネス」として成立させようとしたら、じゃんじゃん金の使える富裕層を増やすか、庶民の生活を著しくアップさせるしかないという話になる。それだって、同じ金額を払うなら洋服買った方がいいという人が多いだろう。伝統とビジネスの両立とは、単価の高い特殊技術の手間暇仕事とリーズナブルな商品生産の両立であり、どんな分野でも難題だ。
まあなんとなくの予想として、2020年のオリンピック開催を睨みながら、国内外に向けてますます「日本の伝統」の見直し、強調があちこちでなされるだろうし、このところの「和もの」人気もあるから、きもの関係の業界もそっち方面で細かく儲けていこうという算段ではないだろうか。


私個人は、昨年亡くなった義母から譲り請けた十数枚と中古で買ったもので、婆さんになるまでささやかなきものライフを楽しみたいと思っている。
もちろんそれは過去の遺産を今に活かすというだけで、新しいものの創造には関わっていない。だから職人さんにもお金は回らないし、伝統をビジネスとして存続させることにも繋がらないのだけど。



きものの花咲くころ

きものの花咲くころ

戦前から高度経済成長期まで、消費者と社会やメディアときもの業界の関係、流行や着付けの変遷など非常に興味深い内容。



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