なぜ日本の初任給は低いのか?その課題について考えたい。
撮影:今村拓馬
企業の高卒初任給が最低賃金を下回っているという前回の記事に大きな反響があった。
ただ寄せられたコメントの中に「最賃と初任給が一緒でもよいのではないか」という意見があったのには驚いた。
諸外国のどの国を見ても、初任給を最賃と一緒にしている国は見当たらないだろう。
最賃は法律で保護されるべき最低の賃金であり、日々の生活すらも危うい水準だ。一緒でいいというのは、長く続いた低賃金に慣れてしまったとしか思えない。
そもそもなぜ、日本の初任給は低いのか。
その要因の一つが、現在の経団連だ。経団連は今から約30年前に、以下のような提言を発表しているのだ。
「現在能力ある在籍者に対し、新規学卒者の潜在能力をこれほどまでに高く評価すべきかどうかについて考え直すべきではないだろうか」(1990年8月「日経連富士吉田提言」。詳細は後述)
今回の原稿では、日本の初任給の問題点について、改めて考えてみたい。
アメリカ「初任給」は約560万円
円安・物価高はあるが、アメリカの初任給は日本よりも高い。
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高卒初任給だけではなく、新卒の大多数を占める大卒初任給も、国際基準から見ると極めて低いのが現実だ。
2022年度の日本の大学卒の平均初任給は21万854円。従業員1000人以上の大企業でも21万7269円といずれにせよ22万円弱だ(産労総合研究所調査)。
年収に換算すると253万円だが、ほぼ固定のボーナスが付くため、夏1カ月と冬の2.5カ月を加えると、約327万円。大企業でも約336万円だ。
一方で、アメリカの2020年のエントリーレベル(※)ポジションの平均給与は、Indeed調査によると年間4万153ドル(562万円)。
地域やポジションによって幅があり最低でも2万6000ドル(364万円)、最高は5万6000ドル(784万円)となっている(いずれも1ドル140円で計算)。
円安といってもアメリカの初任給に比べてかなり見劣りする。
※エントリーレベルとは「キャリアを始めたばかりで、インターンシップ以外の専門的な経験がかなり不足している人」と説明しており、新卒初任給に相当する。
スイスは800万円超
日本の初任給の水準は、アメリカよりも低いだけではなく、諸外国に比べても低い。現在の円安の影響を受ける前から、この状況は続いてきた。
アメリカの人材組織コンサル企業、ウイリス・タワーズワトソンが諸外国の大卒入社1年目の2019年の平均基本給(年額)を調査している(『日本経済新聞』2020年4月21日)。
最も高いのはスイスの800万円超、続いてアメリカの632万円、ドイツの534万円。ノルウェーが400万円超、フランスやスウェーデンが300万円超だが、日本の基本給(年額)は262万円。ボーナスは含まれていないとはいえ、さすがに低い。
韓国の大企業とは大きな差
韓国の大企業の初任給は、日本よりも高額だ。
REUTERS/Andrew Kelly
お隣、韓国はどうだろうか?
日本貿易振興機構(JETRO)の調査レポート(2022年9月5日)で、韓国経営者総協会が2019年時点の日韓の大卒初任給を比較した調査によると、韓国の平均初任給は2万7379ドル、日本は2万7540ドルとほぼ変わらない。
しかし、企業規模別の比較によると従業員500人以上の韓国企業の平均初任給は3万5623ドル、1000人以上の日本の平均初任給は2万8460ドル。
当時の為替レートを1ドル109円として計算すると、韓国は約388万円で、日本は約310万円。大きく水をあけられている。
ちなみに韓国の『毎日経済新聞』(2022年4月29日付、電子版)は、サムスン電子の大卒初年度の平均年収が5150万ウォン(約541万円)と報じている。
6年前にサムスン電子を取材したことがあるが、部門や業績によって年収に大きな格差がある。人材の獲得においてもアメリカのトップクラスの大学の卒業者を高報酬で採用しているのが印象的だった。
賃金横ばいの原因は「初任給」
日本はバブル崩壊後、人件費を抑える戦略をとった。
撮影:今村拓馬
諸外国に比べて低い日本の初任給だが、実は日本の賃金が30年間も上がらない元凶の1つは、初任給の低さにあると考えている。
日本企業はバブル崩壊後、商品・サービスの価値創造よりも人件費抑制による事業戦略に転換し、事業構造改革という名の賃金制度改革やリストラによる賃金抑制策を推進してきた。
そのターゲットが入口の部分、つまり新卒の初任給を上げないことと、採用の抑制だった。採用の抑制は後に「就職氷河期」と呼ばれ、多くの新卒無業者をつくり出すなど社会問題となった。
なぜ初任給を上げないのか。
上げてしまうと、年功賃金の性格上、在籍している社員を含めて全体の賃金を上げざるを得ないからだ。それは、賃金抑制を目論む企業にとっては絶対に避けたいことだった。
実際に初任給の対前年比増加率は、産労総合研究所の調査によると、2007年の0.43%以降、2022年度の0.64%に至るまで1%を超えることはなかった。
初任給「据え置き」を提言
1990年10月1日付「週刊労働ニュース」を撮影。
新卒初任給という入口の蛇口を閉め続けた結果、前回の記事で述べたように高卒初任給を最賃が上回るという異常事態にまで発展した。
その初任給抑制の号令をかけたのが、日経連(日本経営者団体連盟=現経団連)だった。
日経連は1990年8月23日、経営トップセミナーで「日経連富士吉田提言」を発表。提言は理事会で満場一致で決議された。
提言の中で新卒初任給について以下のように言及している(『週刊労働ニュース』1990年10月1日)。
「近年の学卒初任給の上昇は著しく、とくに平成2年度(1990年)は在籍者賃金の上昇に近いものであった。新規学卒者採用競争に走るあまり、このまま初任給の大幅上昇が続けば、企業の合理的な賃金体系の維持は困難となる。企業として現在能力ある在籍者に対し、新規学卒者の潜在能力をこれほどまでに高く評価すべきかどうかについて考え直すべきではないだろうか。平成3年度の学卒初任給は、現行水準の据え置きを基準として考えるべきである」
大卒初任給は高すぎるので据え置きすべきと提言している。
そして、今日に至るまで初任給はほとんど上がらず、諸外国との初任給格差が拡大した。
新卒一括採用の理由は「安いから」
提言で興味深いのはノースキルの潜在能力しかない新卒人材を「高く評価すべきかどうか」と、軽視している点だ。
これに関連して以前、筆者は大手企業の人事担当役員に「潜在能力しかない新卒をなぜ大量採用するのか」と質問したことがある。
彼は一言「安いからだ」と言った。
新卒をはじめとする若い労働力は生産性に比べてお買い得ということである。つまり新卒一括採用は学生にとって就職しやすいという面がある一方、企業にとっては“低価格大量仕入れ”が最大の魅力だった。
NTTグループが初任給引き上げ
NTTは初任給の引き上げを発表。2021年以降、初任給を引き上げる企業は相次いでいるが……。
REUTERS/Issei Kato
しかし、そのやり方はもはや限界に達している。
低価格で仕入れ続けた結果、周知のように優秀な新卒人材が外資系企業に奪われるという事態が発生して久しい。
外資系コンサルやグーグルに就職した東大卒の社員にその魅力を聞いたことがあるが、その一つに報酬も含まれていた。
日本企業もそうした事態に危機感を抱き、2021年から初任給を引き上げる大企業も増えている。
11月8日、グループの主要会社の大卒初任給を2023年4月から14%引き上げると発表した。現行の21万9000円から25万円。採用時点で専門性が高いと判断した人材は24%アップの27万2000円以上にするそうだ。
NTTの島田明社長はその理由について「ICT(情報通信技術)の分野は非常に競争が激しい。デジタル人材をしっかり確保しなければビジネスにならず、魅力ある会社にする」(『朝日新聞』2022年11月9日付朝刊)と述べ、危機感を露わにしている。
諸外国に比べて劣後した日本の大卒初任給。引き上げるにしてもあまりにも遅きに失したと言わざるを得ない。
(文・溝上憲文)