ジョジョの忠義な哲学ッッ!

ジョジョの忠義な哲学ッッ!

ジョサイア・ロイスの名著『忠義の哲学』(Philosophy of Loyality / Josiah Royce)の「ジョジョ」訳を連載中です!
人類に平和をもたらす「忠義」について、『ジョジョの奇妙な冒険』との合わせ技で楽しく解説します。

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小林よしのり氏は尊皇心・天皇に関する自身のブログ記事で、血統よりも人格を重視する旨を述べました。男系血統の「血の器」は尊敬できず、神がかった「人格」をこそ尊敬するのだそうです。しかしこれは尊皇心とは言えません。むしろ亡国を導く考え方です。

 

尊皇心は「人として尊敬する心」か?

小林よしのり氏
「わしは今上陛下には、まだ尊皇心が育っていない」

上記はゴー宣道場ブログ「尊皇心について」からのもの。

今のところ、小林氏は昭和天皇や上皇陛下ほどには、今上陛下を尊敬できないそうです。

まあ、同意せずとも理解できる話ではあります。

例えば明治天皇は「大帝」と呼ばれるほど、崇敬を集めるお方です。
歴代天皇において、より尊敬される方、そこまででもない方がおられるのは自然なことでしょう。

しかし、それを尊皇心の文脈で語るとなると話が変わります。違和感を覚えざるを得ません。

「ここの社長は人を見る目がある」
「あの先生は子供の良いところを認めて、伸ばしてくれる」
「ウチの妻は、家庭がうまく回るようにいつも気を配ってくれる」

といった一般的な人格評価による「尊敬の気持ち」は、尊皇心とは異なるものだからです。


尊皇心とは何か?

では尊皇心、「天皇を尊ぶ心」とは何でしょうか?

 

天皇とは?

まず現行憲法によれば、天皇とは日本国と日本国民統合の象徴です。
国家と国民全体を表す存在ということですが、この捉え方では不充分。

思想・倫理的な方面から端的に言えば、
天皇とは、お天道様を体現しようとするお方です。

お天道様/太陽というと、次のようなイメージがあります。
〇地上にあまねく光と熱を注ぎ、万物を育てる
〇人の心を含め、あらゆる事柄を知り、その正否善悪を理解する


そして皇室の始祖は太陽の女神(天照大神/アマテラスオオミカミ)です。

その子孫である天皇は、
〇太陽神の心を自らの心とし、公平無私、天下あまねく慈愛を注がれる
〇国家・国民のことをよくよく知り、その安寧と成長を神々に祈られる


そのように言うことができます。

 

大切にせねばという気持ち

人の心身において、神を体現しようと努める。とてつもなく困難なことです。

他国の皇帝や国王、元首に見られがちな、自らを神に擬して絶対的権力を振るうのとは真逆の在り様と言えます。

ところがこれを、人の身として個性・自我はありつつ、125代の永きにわたって続けて来られたのが歴代の天皇です。今上陛下はそれを引き継がれました。公務をこなすと同時に、日本の祭主として数々の祈りの儀式を執り行われています。

そう知れば、国民の一人として尊ばずにいられましょうか。
多くの人に、天皇はありがたいお方である、大切にせねばという気持ちが湧き上がると思います。

尊皇心とはこれです。
天皇を敬うと共に、大切にしたい、大事にしたいという気持ちです。

 

参考:杉本五郎中佐遺著『大義』|解説 第1章『天皇』その1 天照大神の御心を自らのものとせよ!

 

 

天皇の真意を叶えようとする心

誰かを大切にしたいと思うなら、人はどうするでしょうか。
その人の心に寄り添いたい、志に協力したいと考えます。

小林氏の言を借りるなら
「天皇の真意を叶えようと努力する」。

天皇の祈り実現のため、すなわち、
人々の暮し、安全、幸福のため、また国家や地域の維持・発展ために働く。

それが「尊皇の行」です。

そうと意識してなくとも、

世のために自らの仕事に励む人、
育児や家事をがんばる人、
余暇を使って社会活動に尽くす人は「尊皇の人」とも言えます。

その行為が天皇の祈り実現につながるものである限り。

 

 

君民一如、無私の心へのあこがれ

また、天皇を敬う場合、その公平無私・広大無辺の心にあこがれるということもあります。

自分だけの利を求めたり、誰かに嫉妬したり恨んだりといった、
数限りない小さな自我へのこだわりを捨て、自分も陛下のように大きな心で生きたいと願うことです。

天皇は人の身のまま、我執を去って神の心で国民・国家のために尽くされる。
国民は天皇の大御心を自らの心とし、小我を抑えて天皇の祈り成就に尽くす。


それが日本の国柄の理想たる「君民一如」であり、尊皇心の姿であると言えます。

 

 

血統ゆえの人格

小林氏は
「わしは「血の器」を尊敬する気持ちはない。
ましてや「男系血統の器」を尊敬する気持ちなど全然沸いてこない。
「器」ではなく、「人格」、特に神がかった人格を尊敬する。」
と言います。

尊皇心の源は、天皇の人格と考えているようです。

しかし、その人格、公平無私の大御心や国・民をいたわる御姿は「血の器」あるゆえのもの。

血統あるゆえにあえて重責を負い、日夜精進され、輝きを増すのです。

国民はその姿を仰ぎ、その方が天皇であることを納得します。
今上陛下を通して過去125代の天皇を見ています。

たとえその時点で、畏れ多いことながら「物足りなさ」などを感じたとしても、これから磨かれるのを信じるのです。その信頼にも「血の器」は大きく作用しています。

この点、125代を例外なく男系でつないできた伝統は重い意味を持ちます。
旧宮家復活や、その男子と現宮家の養子縁組など、これを最大限維持する努力が必要です。

 

 

人格を評価することは亡国への道

逆に、人格を評価することは亡国への道です。
評価は比較につながります。

「○○様は今一つ。▲▲様は素晴らしい」
「○○様より▲▲様の方が皇位にふさわしい」

こういったことは国難の元です。
人格・能力の比較評価は、深刻な対立、分断と争いをもたらします。

歴史を見ても、壬申の乱・保元の乱など数多くの政争・内乱を引き起こすこととなりました。
皇室以外でも、戦国武将の「お家争い」などを想起すればすぐに気づくはずです。
(織田信長、武田信玄、伊達政宗らはいずれも家督を巡る争いを経験しました)

すでにある継承順位と「血の器」の伝統を守ることは、決定的に大切です。

尊皇心があるならば、この点を無視することはできないと考えます。
それは国の安定と平和を脅かす、すなわち天皇の祈りに反することになるからです。

 

 

政府・宮内庁は皇室を守る努力をすべき

とはいえ一般の人心は目に入る「人格評価」、耳に入る「評判」で左右され、対立を煽られてしまうもの。

敬意・品位に欠ける週刊誌はじめ、軽薄なマスコミ報道は問題です。
不確かな情報を元に勝手な論評、いわれなき非難を行う場合も多く、まったく尊皇心に欠けるものと言えます。

報道・表現の自由にある程度配慮しつつも、政府・宮内庁はもっと皇室を守る努力をすべきです。
皇族の方々は基本的に、報道内容に対して反論したり、名誉棄損で訴えたりすることはできません。
現状を放置する怠慢は、大いに批判されねばならないでしょう。

 

 

「進撃の庶民」様へ寄稿しております。(隔週土曜日連載です)